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エッセイ

アーティストトーク
〈風景〉について

静岡県長泉町IZU PHOTO MUSEUMにて開催されたトークより、2013年1月30日

1970年前後に、日本の言論の中で〈風景〉が話題になったということがあるようです。それはまとめて〈風景論〉とも呼ばれたらしい。当時、私はまだ田舎の小学生でしたので、この時期に例えば映画評論家の松田政男氏や、それから写真家の中平卓馬氏などが使っていたこの「風景」という言葉を、同時代的に共有していたわけではありません。大学に入って大辻清司氏と出会い、日本の写真界で使われる概念のいくつかについて馴染むようになりましたが、その時にはもう、〈風景論〉は10年ほど過去のものになっていたわけで、周囲の写真家たちの〈風景〉に対する関心は、すでに変質していたような気がします。

松田政男氏や中平卓馬氏と言う〈風景〉は、言ってみれば、無意識のうちに環境や社会を安定させていこうとする、保守的な権力や怠惰な大衆の精神が作り出す、抑揚のない生気を欠いた〈眺め〉のことであるようです。両氏にとっての〈風景〉は、讃えたり観照したりすべきものではなくて、あくまで「切り裂かねばならない」ものであったり、それを「超えて旅立つべき」ものであったりするようです。

これは例えば、大地や樹木や山や空があるような、ケネス・クラークが『風景画論(Landscape into Art)』(1949年)で描いた〈風景〉やフランスのアナール学派の歴史研究の中で、分析的に語られる〈風景〉などとは、あまり関係がないでしょう。1970年前後の日本の〈風景論〉における〈風景〉とは、どちらかというと、人の判断能力を飼い慣らすように作用する、ひとつの弾劾されるべきイデオロギーなのであり、のちによく使われるようになった〈制度〉や〈システム〉などと似た、ネガティブなニュアンスを持った〈隠喩〉であったと理解できます。

〈風景〉という、なぜ芸術や美を連想させる語が、このようなネガティブな隠喩として、ある時代の日本で機能したか。ひょっとしたら、そこには、明治時代から敗戦まで、日本の国土の美を国粋主義的に讃えるためにあった、この〈風景〉という語そのものに対する、憎しみもあったのかもしれません(志賀重昂『日本風景論』1894年)。それから個人的に気になるのは、その時代に完全に大衆のものになったと言っていい、写真や映画といったレンズ・メディアの特性と〈風景〉という概念とが、お互いにどのような影響を及ぼし合っていたのかということ。つまり、なぜあのような種類の写真や映像が〈風景〉という語との関わりにおいて、一部の知識人や芸術家たちにリアルなものとして受け止められていたのか、ということです。でも、それに関して考えることは、いまここで私が行うべきことではないような気がします。

ここでアメリカからいらした方々に、日本語の〈風景〉という語について少しお伝えしておきます。この語はもちろん中国から伝わって来ました。百科事典によると、3世紀から4世紀頃に中国で使われ出したらしい。面白いと思われる点は、この〈風景〉という語が「風」と「光」という、とても美しい意味を持つ漢字によってできているということなのです。欧語の「landscape」や「paysage」などという単語の中にある「国、土地(land, pays)」といった意味は、そこには含まれていません。

中国では、地、水、火、風が、人間を含むあらゆる事象を構成する四大元素とされていたそうです。風の字の中には、「虫」という字が入っていますが、それは元々は、「鳥」という字であったと言われています。風は風神として鳥形の神とされていました。そして「景」とは光のことです。実際「風光」という言葉もあり〈風景〉と同じような意味に用いられていますが、「風光」とは、草木が「風」に揺られて「光」ることを言うのだそうです。この語はとても網膜的で、しかも動きが伴っています。きらめく光の動きは、まさに〈いま〉、つまり〈自然〉を感じさせるものでしょう。自然に対するそのような現象学的理解が、すでにこの〈風景〉という語の中には含まれています。「土地の姿」といった、ヨーロッパの人々が作った言葉とは違い、美学的判断や芸術(詩)が、すでにその中に内在していると言ってもいいような語なのです。

でも、この語には、現在では「風と光」とか「土地の姿」とかいった語源的な意味合い以上の、別の使用法があるような気もします。英語でも例えば「political landscape(政治状況、政治的な展望)」なんて、語本来の使用法からは少しズレた表現があると思いますが、日本語では昔から、「一家団欒(だんらん)の風景」などといった表現を、普通に行います。この〈風景〉を、英語になんと訳せばよいのか?通訳の方に聞いてみたいものです。

以前、新聞に、ある作家が有名な映画俳優と一緒に、おそば屋さんに行った時のことを書いていました。その俳優はテレビなどに頻繁に出る人気俳優だったので、彼がそば屋に入ると、客がいっせいに注目するのです。店の中の客はそれでも、騒いだら大人げないので、どこか知らないふりをしているわけですが、窓の外の通りから、その俳優を見つけて寄ってくる人もいて、それがだんだん増えてくる。何人ものファンがのぞき込んでいる窓のすぐ下の席で、でもその有名俳優は、平気でそばを食べ始める。作家の方は、窓の外で興奮している人々の顔をちらちらと見上げながら「どうしよう」と、その俳優を心配するわけです。そうするとその時、俳優が「いいんです、あれは風景ですから、風景」と言ったといいます。私にとって、この俳優の〈風景〉という語の使用法は、とてもしっくりきます。

英語やフランス語の〈風景〉にも、現在ではひょっとしたらこのような使用法があるかも知れません。例えばあなたが大学の講義室で、一生懸命美術史を教えているのに、学生たちはあなたの話に関心を示さず、それぞれ居眠りをしたり、窓の外を見たり、iPhoneを勝手に見ていたりするとしましょう。私の勝手な想像ですが、そういう時に、あなたの頭に「なんというランドスケープだ…」という表現が浮かんだとしても、おかしくないような気がするんですが、どうでしょうか?

「風景」という言葉がもし、そのような情景にぴったりはまるとしたら、そこからこの言葉の特徴が想像されるような気がします。この場合の〈風景〉は、語源学的な意味での「国、土地」あるいは「風、光」という意味からは離れた、もっと別の心理学的な言葉になっているのではないでしょうか。「風景」とは、心理的に疎遠である、心理的に距離がある、自分とは直接に結びついていないと感じられる〈眺め〉のことだと言ってよさそうに思います。

中国で「風景」という言葉が使われる以前、「自然」は比喩として、人間に引きつけられていたと言われます。つまり擬人化されていた。でも〈風景〉以降、自然は人間から独立した対象物として、眺められるようになったのだと言われます。一方ヨーロッパでは、自然環境が神様や人間から〈独立〉した眺めになったのは、いつのことでしょうか?近代における科学的世界観の確立の過程で、ということになるのかもしれません。中国における風景芸術の始まりが早く、写実性にそれほど重きを置かれていないことに対して、ヨーロッパにおける風景芸術の始まりは遅く、写実性に重きが置かれていました。「風景」という言葉がもともと持っていた意味とその使われ方が変容していった過程は様々な形で認識されていったのでしょうが、この〈距離〉の獲得には、時代性と地域性とが大きく関わっていたことでしょう。

絵画であれ、詩であれ、写真であれ、現実の再現/表象を繰り返していくうちに、人は表象と現実の間に生まれる差について考えざるを得なくなります。その差を理解しながら、表象をまた現実空間に投影するなら、主体が眺める環境は、心理的な距離を伴った美学的環境、つまり〈風景〉として現れてきます。そこまで来たら、「自然は芸術を模倣する(life imitates art)」までは、あと一歩です。つまり風景が芸術を生むのではなく、逆に芸術が眼前の風景を作り出している。風景は、自然環境を人間が美学的に飼い慣らしたものである、といった批評的理解が出現するのです。それは確かに、権力やイデオロギーを巡る政治的な議論となる可能性を持ち、ここに至って〈風景〉は、極めて現代的な言葉となるのです。現代では東洋においても西洋においても、〈風景〉の主眼は、もっぱらこの美学的環境を作り出す心理的な距離と政治的なアジェンダである、という点に、話題が絞られてきているような気がします。

「風景」という語について話すのは楽しいですが、〈風景〉を扱った自分の仕事に関して話すのは、骨が折れます。自分の仕事のかたちは、生きていくことから生じる偶発事に応じて常に変形されるからです。その全体に概念的な統一性を与えることができれば、外からは立派なアーティストに見えるのでしょうが、それほど上手くいくものでもありません。

まず、私が学生時代に撮っていたもののうちから、いくつかをお見せします(図1)。私には、造形的な面において、ある種の〈好み〉があったのだ、ということが解ると思います。例えば地と図の関係がはっきりしていること。フレームと対象の大きさの比率が似ていることなどです。この当時は、写真に写すことだけで、対象となったものが、謎めいたものに変化してしまうことが面白くてしょうがなかった、という記憶があります。

1. 畠山直哉 《木》 1982年 © Naoya Hatakeyama

私はすでにこの頃から〈距離〉という言葉を意識していました。写真による〈距離化〉と言えばいいでしょうか。ものごとを写真にすると突然に生じてしまう時間的、空間的、心理的な距離。その距離の中に、さまざまな想像を可能にする空間が出現します。文学における〈異化(defamiliarization)〉に似ていると思いました。この写真(図2)のルックスは非人間的で冷たく、まるでロボットが撮っているみたいですが、同時に何か〈可笑(おか)しみ〉のようなものが感じられる瞬間があって、私の先生であった大辻清司が紹介してくれた、フランスのシュルレアリスムのいくつかの仕事を、自分で思い出していました。80年代の初期のことです。

2. 畠山直哉 《新幹線》1982年 © Naoya Hatakeyama

私にとって、ケネス・クラーク的な意味での〈風景〉を扱ったのは、80年代後半の、この「Lime Hills(ライム・ヒルズ)」が最初になります(図3)。これを見ると、若い私がアメリカの70年代以降のカラー写真の影響をもろに受けているということが解ると思います。この仕事は故郷の石灰石鉱山から始まって、日本全国の鉱山を訪ね歩くまでに大きなプロジェクトとなりました。この頃私は、東京で暮らし始めていましたが、このような地方の鉱山の景観と、自分の暮らす都市の景観を、石灰岩という素材を共通項として眺める、という習慣を持ったと思います。つまり、ふたつの異なる場所を結びつける物語を想像しながら、撮影を進めるようになったのです。

3. 畠山直哉 《Lime Hills #15318》1987年(2002年プリント)、SFMOMAコレクション、空蓮房コレクション寄贈 © Naoya Hatakeyama

「Lime Hills」と似た位置にあるのが、2000年代後半に行った「Terrils(テリル)」という、ボタ山を扱った仕事です(図4)。これは、北フランス、リール近郊でのアーティスト・イン・レジデンスの機会に制作されました。これらの山は、地中にあった石炭のクズによってできているのですが、地表に積み上げられる際には、人間によって空中から落とされます。まず重力に逆らう方向に物体が動き、その後重力に従う。人間が作ったにもかかわらず、この山は天から降ってきた、超自然的な山に見えます。

4. 畠山直哉 《Terril #02607》2009年 © Naoya Hatakeyama

最後に、一番最近行っている〈風景写真〉をいくつかお見せします(図5)。これは2011年から継続的に撮影されている、東北地方のひとつの町を扱った仕事です。お分かりのように、あの大きな津波災害のあとから撮影が始まり、ガレキが片付いて、町がだんだん静かになっていく過程が写されています。カタストロフィと風景芸術との関係は永く、特に写真の分野では、ひとつの大きなジャンルを形成しているとも言えますが、これが果たしてそのジャンルに分類されるべきものなのかどうか、私にはまだ解りません。ここにもし〈距離〉の問題が眠っているとしても、それは私と他者との間では、計り知れない差を生むような〈距離〉だからです。みなさんにとってはどうか解りませんが、少なくとも私には〈距離〉を感じることすら難しい。なぜならこの場所はかつて、私が生まれて育った場所だからです。

5. 畠山直哉 《高田町 2011.5.2》 「陸前高田」シリーズより2011年 © Naoya Hatakeyama

撮影者の苦労やパーソナル・ヒストリーなどは、言語であって光ではないのだから、写真には写りようがない。だからそれらは、写真の価値判断からは除外するべきだ。そのような意見をはっきりと言葉にしたのは、20世紀後半の、アメリカの写真家だったように思います。彼が向かって行った〈ソーシャル・ランドスケープ〉において現れた新しい〈距離〉は、確かに新しい世界の〈眺め〉を、私たちに教えてくれていました。

この写真から、撮影者である私自身のことは、何も読み取ることができないでしょう(図6)。そこにはただ〈風景〉があるだけでしょう。荒れ果てた地面、暗い空にかかる虹。そういった、どこか北ヨーロッパのロマン主義絵画によく描かれているような、芸術的〈風景〉に見えてきます。でも私は、この虹のふもとに、かつて自分の家が建っていたことを知っています。津波で流されてしまった私の家の場所から、いま虹が立ち上がるように出ている。それが、私が、この写真を撮った、大きな理由なのです。

6. 畠山直哉 《気仙町 2012.3.24》 「陸前高田」シリーズより2012年 © Naoya Hatakeyama

「この虹のふもとに、かつて私の家があった」。私のこの言語的情報によって、この写真の〈見え〉は、急に変化したのではないでしょうか。そのあとでも、これは〈風景〉に見えるでしょうか、それとも見えないでしょうか?この写真の価値にとって、言葉は邪魔なものでしょうか、必要なものでしょうか?もし言葉があった方がよかったのだとしたら、言葉を邪魔なものとし、写真はあくまで自然環境から生まれる芸術的〈風景〉として鑑賞されるべきだとする態度の中には、イデオロギーが潜んでいる、ということにはならないでしょうか…?最近の私は、こんなことばかりを考え続けています

引用時の表記法「アーティストトーク
〈風景〉について」『日本の写真にフォーカス』2022年 2月、
サンフランシスコ近代美術館、https://www.sfmoma.org/essay/アーティストトーク〈風景〉について/
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畠山直哉

畠山直哉

日本の写真家。2012年、サンフランシスコ近代美術館にて畠山の写真展「Natural Stories(ナチュラル・ストーリーズ)」が開催され、同美術館のコレクションに深く関係する。
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エッセイ

研究資料

日本の写真—1950年代から1980年代までの批評論集

第二次世界大戦後の日本が消費者主導の経済へと変貌を遂げる中、国の主要な新聞社各社は大衆市場向けの写真誌の制作を始めた。当時、日本土着の特性を持ち、独創的で高い表現力を持つ新しいスタイルの写真が台頭し始めたが、まだ作品自体が芸術表現であることへの世間一般の認知度は低く、このような写真誌がその普及に重要な役割を果たした。数ある写真誌の中でも特に重要な存在だったのは、毎日新聞社の月刊誌『カメラ毎日』と朝日新聞社 (現在の朝日新聞出版) が刊行した『アサヒカメラ』であった。両誌は、その頃成熟期を迎えつつあった東松照明、森山大道、細江英公らに代表される世代の日本写真家の目新しく個性的な作品だけでなく、欧米の写真作品やそれらに対する批評文も紹介した。多くのページはアマチュア写真家の作品にも充てられ、家族写真を上手に撮る秘訣や、海外の大規模な写真展や展覧会図録に関する真摯な批評や論考なども合わせて掲載した。またこの頃、両誌より小規模で私的な写真誌も出回るようになる。石内都と楢橋朝子が手がけた『Main(マン)』は、彼女たちの作品を通して試行錯誤を重ねる女性写真家としての体験を綴っている。ここに厳選した1950年代後半から1980年代にかけて書かれた記事やエッセイはいずれも、日本の写真文化とその海外における写真界との繋がりを考察する現代の言説を例証するものである。