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写真家

荒木経惟

日本

東京都台東区出身

Black and white portrait of an Asian man wearing an eye patch, Araki
荒木経惟 写真提供:タカ・イシイギャラリー(東京)© 荒木経惟

日本の写真界において最も多作な人物の一人、荒木経惟(1940年生まれ)は、1970年から現在に至るまでに数え切れないほどの写真作品と500冊を超える写真集を世に送り出してきた。膨大な数の作品群は、コラージュや映像の使用、また近年においてはポラロイドのインスタントフィルム技術の採用など、幅広いメディアを取り入れた荒木の飽くなき実験が物語る通り、見る者が容易に分類できない多様性に富んでいる。性を主な題材とした荒木の不遜で皮肉さに満ちた写真はしばしば物議を醸し、彼を悪名高き写真家として世に知らしめることになる。演出を殆ど施さずに撮影される荒木の狂乱めいた写真作品は、第二次世界大戦、そしてそれに続く戦後の混沌とした時代の日本の体験を象徴するものである。

1959年に千葉大学に入学した荒木は、写真と映画を専攻。当時、写真印刷工学科は工学部に属し、その頃から不適合分子だった荒木は学部の厳格に管理され技術面を重んじる環境に対して興味を抱くことはなかった。しかしながら、荒木が卒業制作として提出した映画『アパートの子供たち』(1963年)は彼が初期に手がけた写真シリーズの素地となり、当シリーズは制作の翌年、雑誌『太陽』主催の太陽賞を受賞する。「さっちん」(1964年)は、同年開催の東京オリンピックに向けて疾風の如く急速な都市化が進む中、その影響を殆ど受けることのなかった東京の下町の学童たちを被写体としている。千葉大学卒業後、荒木は広告会社・電通に広告カメラマンとして勤務。そこでの仕事を極めて退屈に感じていたものの、荒木は資材の豊富な電通の施設を利用し、暇を見つけては写真の腕を磨いていった。そうした好機に付け入った荒木は、ついには社のコピー機を不正使用して自作の写真を複写し、それを初期の写真集として発表する。

1960年代後半、荒木の人生と作品制作に極めて大きな影響を与える二つの出来事が起こる—1967年の父親の他界、そしてその翌年の当時タイピストとして電通に勤務しており、のちに荒木の妻となる青木陽子との出会いであった。死と愛は、人間性を深く追求する荒木の写真作品に欠かせない二つの原動力となり、陽子は荒木が最も多用する被写体となった。荒木と陽子は1971年に結婚し、新婚旅行へと旅立つ。新婚旅行時の様子を詳細に記録した『センチメンタルな旅』(1971年)は物語的な表現方法、私的な空気感、そして日常をありのままに伝える美的感覚を用いており、20世紀に日本で出版された写真集の中で最も重要な一冊と見みなされている。写真家としての成功を手にした荒木は1972年に電通を退社し、芸術家一本でやっていくこととなる。

荒木は自身の多岐にわたる写真作品を、多く一人称で書かれた日本の告白体文学「私小説」になぞらえ、『私写真』と呼ぶ。自らの人生と経験(性的なものであれ何であれ)に対する荒木の揺るぎない執着は、濱谷浩などに代表され、そのころ主流であったドキュメンタリー手法の写真美学や、1960年代後半より普及した日本の前衛写真の流れを打ち立てた写真誌『PROVOKE(プロヴォーク)』の写真家たちに特徴的な〈アレ・ブレ・ボケ〉の手法への抵抗であった。荒木は「偽ルポルタージュ」シリーズで、これらの写真的アプローチに真っ向から立ち向かう。1980年に出版された関連写真集は、当シリーズで発表したドキュメンタリー風な写真に誤解を招く説明書きを添えることで、写真が伝える情報の正確さ、信憑性といった本質的な問題を浮き彫りにしている。

1990年に妻の陽子が他界すると、荒木は数々の新プロジェクトを始動する。2008年に自らの前立腺がんの診断結果をも用いて取り組んだ作品は、先細りの一途を辿っていたアナログ写真の可能性を探る試みの出発点となった。塩で覆われた写真のシリーズ「遺作 空2」(2009年)は、付着した物体を徐々に劣化させる塩を使用することで、彼自身の肉体的な衰えを描写している。1974年にジョン・シャーカフスキーと山岸章二が共同キュレーションし、ニューヨーク近代美術館で開催された画期的な「New Japanese Photography」(ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー)展には参加できなかったものの、荒木は山岸がアメリカで企画した二つ目の展覧会であり、1979年にニューヨークの国際写真センターで開催された「Japan: A Self-Portrait」(自画像 日本)展への参加を果たす。これに先立ち、1977年、オーストリアのグラーツ市立美術館で国外での初グループ展「Neue Fotografie aus Japan」(日本の新写真)に参加した荒木は、ヨーロッパにおける認知度も高めていく。荒木の海外での初個展「Akt-Tokyo(アクト・トーキョー): Nobuyoshi Araki 1971–1991」は、1992年にグラーツ市立公園フォーラムにて開催された。

マシュー・クラック 著

十文字素子 訳

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荒木経惟 参考文献

インタビュー

所蔵品 荒木経惟

エッセイとアーティストトーク

  • 東京国立近代美術館で開催された二つの展覧会、「現代写真の10人」(1966年7月15日-8月21日)と、「15人の写真家」(1974年7月26日-9月8日)は、いずれも第二次大戦後の日本の写真の展開において重要な役割を果たした写真家たちの近作によって構成されたグループ展だった。[1] 二つの展覧会には、戦後に登場した第一世代として写真表現に革新をもたらしたVIVO(ヴィヴォ)のメンバーである東松照明、奈良原一高、細江英公、佐藤明や、1960年代末から1970年代初頭にかけ、その活動が大きなインパクトを残したことで知られるPROVOKE(プロヴォーク)のメンバー、中平卓馬、森山大道、高梨豊らが名を連ねていた。「現代写真の10人」に出品されていた作品の中で最も年代の早いものは1962年である。「15人の写真家」には当時、雑誌に連載中の作品も含まれていた。つまり二つの展覧会をあわせれば、そこには1960年代初頭から1970年代半ばまで、15年ほどの日本の写真界の動向が視野に入ってくることになる。そしてその時代とは、今日、日本の戦後写真史において最も劇的だった時代の一つと考えられている。 二つの展覧会が開催された背景をまず整理しておこう。1952年に東京・京橋に開館した国立近代美術館は、その翌年に最初の写真展「現代の写真-日本とアメリカ」を開催する。これは戦後の日本写真の秀作により構成された日本側の作品と、ニューヨーク近代美術館のコレクションから選ばれたアメリカの写真の、二つのパートにより構成された展覧会だった。[2] これ以降、1966年の「現代写真の10人」までの間には、6つの写真展が開催された。[3] そのいくつかは日本の写真をとりあげるものだったが、そこで紹介されたのは一部の例外を除いて戦後発表された作品であり、いずれの展覧会においても、同時代の動向を紹介するという観点から作品が選ばれていた。 当時の国立近代美術館には、写真を専門とするキュレーターはいなかった。そのため開館以来、1974年の「15人の写真家」まで、写真展の開催にあたっては外部の専門家から構成された選考委員会が作品の選定にあたった。選考委員として招聘された専門家たちは、いずれも当時の日本を代表する写真評論家、写真誌の編集者などである。彼らは毎月のように写真雑誌の誌面などを通じ、同時代の写真についての論評を行い、その動向に少なからず影響を持つ存在だった。同時代の写真を幅広く視野に収めつつ、その動向と併走していた彼らの協議によって構成された展覧会を、ここではおおむね当時の状況がバランスよく反映された、日本写真界の「セルフイメージ」と考えてみたい。どの展覧会においても、特定のテーマをかかげることなく、同時代の動向を分析し、そこから代表的なものを紹介するという姿勢がとられていたからである。その典型は1960、1961、1963年の三度にわたって開催された「現代写真展」である。これらは年次秀作展と呼ばれ、前年に雑誌や展覧会などで発表された写真から選抜された作品により構成された展覧会であり、いわば断面として、直近の写真界の成果を紹介するものだった。[4]「現代写真展」が3回で休止したあとをうけ、三年後、形式を改めて開催されたのが、1966年の「現代写真の10人」だった。この展覧会の選考委員の一人、金丸重嶺がカタログ(図1)に寄稿したテキストによれば、この展覧会に選ばれた写真家たちは、「観念」に始まる「主観的傾向」と「対象を洞察」することから始まる「客観性を重視する傾向」という、二つのカテゴリーに分けられる。[5] このコンセプトは、1950年代末から1960年代初頭において注目された「主観主義写真」[6]の流れが提起した問題を踏まえていた。つまり「現代写真展」が、芸術的表現を志向するものから報道、広告、科学写真まで、あらゆるジャンルから網羅的に、その年ごとの秀作を選ぶという形式だったのに対し、「現代写真の10人」では、明確なテーマこそ掲げられていないものの、過去数年間の動向を分析し、そこから注目すべき傾向を抽出し、それを整理した形で示すという構成が試みられていたのだ。[7] 「現代写真の10人」では、より新しい世代の写真家たちに焦点が当てられていた。戦前からのキャリアを持つベテランも含め、幅広い年齢層の写真家が選抜されていた「現代写真展」とは異なり、「現代写真の10人」の出品作家は、すべて戦後に出発した写真家であり、最も年長の中村由信でも41歳、最年少の篠山紀信は25歳と、比較的若い写真家たちが選ばれていたのである。世代の限定は「15人の写真家」にも共通している。最年長は40 歳の深瀬昌久、最年少は田村シゲルで27歳だった。彼らはすでに一定の評価を得ていたとはいえ、まだ十分に若い写真家であったといってよい。
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